この3枚は昭和33年頃、京急創立60年誌(最近の10年)より拝借しました
金沢区内の京急の駅としては一番北側になる京急富岡駅は悲劇的な歴史があります。
昭和5年(1930)湘南電鉄の開業時には「湘南富岡」という仮駅で、昭和6年5月1日に「杉田」とともに正式な駅として昇格しました。
昭和20年(1945)6月10日横浜南部の空襲では駅近辺は爆撃を受け、駅も壊滅状態となり数十名の人が命を亡くしました。そのため昭和22年(1947)1月10日付けで廃止となりました。
戦後、米軍が鳥見塚付近にあった旧海軍航空隊跡を接収して米軍富岡通信隊ができ、22年の3月に現在の鳥見塚の歩道橋近くに二代目の湘南富岡駅ができました。
はじめのうちは朝夕のみ停車で米軍並びにその関係の通勤者のみの乗降しかできませんでしたが、翌年春から終日停車、一般客も利用出来るようになりました。占領下当時は京急にも白帯を巻いた進駐軍専用車がみられました。
昭和27年(1952)講和条約により占領がとけ、富岡の集落から離れていることもあり、京急の富岡住宅の開発も始まったので昭和30年(1955)12月に駅は元の位置に戻り現在に至っています。駅名も昭和38年(1963)11月に「京浜富岡」となり、昭和62年(1987)に「京急富岡」になっています。
戦後、急行運転再開時には横浜から金沢文庫までの急行の停車駅は日ノ出町、黄金町、上大岡でしたが昭和63年11月(1988)から、終日急行停車駅となりました。しかし羽田空港国内線ホームの完成に伴い、新逗子からエアポート急行が運転されるようになり、能見台、杉田が停車駅となったため京急富岡は通過駅となってしまいました。これも悲劇の一つといえるのかも。