沿線シリーズ⑦昭和半ばの文庫から能見台

 今回は京急、金沢文庫駅から能見台にかけてです。昭和の初めころ現在のイトーヨーカ堂のところに富岡兵器の工場ができました。(戦後は日本平和産業(日平)と平和そのものの名前に変身)その頃、能見台駅(旧、谷津坂駅)はなく次の駅は京急富岡(当時は湘南富岡)でした。現在でこそ金沢文庫から能見台にかけては宅地開発によりひらけていますが昭和30年代頃は山と山の間を電車と16号線が通っているだけで暗い感じでした。兵器工場ができたのもそのような山の中であったからと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  通勤には金沢文庫か湘南富岡(当時)の駅を利用していたようです。横浜中高の先、線路に沿って富岡への歩行路がありました。太平洋戦争もたけなわとなり、兵器工場も増産体制で,工員輸送の便宜のため谷津坂駅ができたのだと思います。ホームは木造で物資のない時代急遽つくられたようで現在の場所より100mほど金沢文庫よりに(現在の16号信号のあたり)昭和19年5月10日開業しましたが、朝夕のみの停車で工員の定期券所持者しか乗降できませんでした。昭和20年6月10日横浜南部の空襲で湘南富岡駅が爆撃をうけ使用不能となり、いつのころか分かりませんが谷津坂駅が一般の人も乗降できるようになり現在に至っています。

 

 住宅開発は、海側は現在の西友ストアの上あたりが、山側は片吹団地が一番早かったと思います。片吹団地は東京生協、西柴は西武鉄道、能見台駅前商店街通りは殖産住宅の開発ですがなぜ京急の線路際を他社が開発したのか不思議です。現在の能見台駅は橋上駅ですが昭和40年初めころまでは片吹団地には踏切を渡って行く道しかなく山側にある駅舎から下りホームへは構内踏切を渡っていました。能見台の駅名は昭和57年に(1982)12月に町名変更に伴い改称されましたがバス停はいまだに谷津坂になっています。

 

 

 

 

 

 

 

 16号から大寧寺への通路は地下道に、片吹団地へは跨線橋となりましたが以前は警報もない踏切で多くの人が電車に惹かれて亡くなっており11月23日には慰霊祭が毎年行われているとのことです。

 

2014年10月8日