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情報が遅れてしまいましたが、昨年の11月に京急が大きなダイヤ改正をしました。23年ぶりがというので当時のダイヤを振り返ってみたいと思います。
例えが悪いですが、普通だけしか停まらない駅が不幸かどうかは分かりませんが、特急、快特が停まれば便利さからその駅を利用する住民にとっては幸せかもしれません。
23年前と言えば、今度の改正と同じように快速特急(快特)、特急が交互に20分間隔で運行、快特は品川、(1998より京急蒲田停車)、京急川崎、横浜、上大岡、金沢文庫、横須賀中央、京急久里浜に停車しました。(以下、京急川崎以北に関しては羽田空港への他社線の乗り入れなどがあるので省略)
急行は朝夕に運転され、京急川崎から京急鶴見、生麦、子安、神奈川新町、横浜、日ノ出町、黄金町、上大岡、京急富岡に(ラッシュ時、井土ヶ谷、弘明寺、能見台にも停車)金沢文庫からは各駅に停まりました。
H11年に昼間の特急は快特に格上げされ、快特が10分毎になり、堀之内から先は各駅に停まるようになりました。又、H22年には金沢八景駅に終日「快特」が停まるようになりましたが、S43年に都営地下鉄乗り入れの時に快速特急が運転されるようになってから実に42年待ったことになります。
H24年京急蒲田駅の上下線乗車区間の完成とともに、羽田空港~新逗子(現・逗子葉山)にエアポート急行が運転されるようになり、京急川崎以南、京急鶴見、神奈川新町、京急東神奈川(旧・仲木戸)横浜、日ノ出町、井土ヶ谷、弘明寺、上大岡、杉田、能見台と停車駅が大幅に見直されました。
乗降客数が20位以内とか乗り換え等の事情に沿ったと思いますが、JRと連絡のできる京急東神奈川、杉田は大躍進、その一方で生麦、子安、黄金町(湘南電鉄開通時の始発駅)、京急富岡が通過となり不幸な駅となってしまったといえるかもしれません。特に子安はS40年代には特急も停車していましたが、隣の神奈川新町には車庫もあり、乗務員の交代もするため全面的に移されてしまい大不孝な駅となったといえるでしょう。
(年代などで間違えがあったら教えてください)
久しぶりに京急の新車が出ると鉄道仲間から情報をもらったので、3月24日午前に総合車両の出庫を見に行ってきました。市大の前の踏切付近には50人くらいの鉄ちゃんが待ち構えていました。
今度の車両は1000形の20次という事で、外観は幌枠のついた正面対象の1800代と大きな違いはありませんが、ナンバーは1891-1―4と1892-1-4の4両編成で、形式の後にハイフンが付きました。車内は大きく変わり、座席はロングシートとクロスシートに変換できるようになり(LCシートという)コンセントが全席に付き、抗菌、抗ウイルス対策もされているようです。またステンレス車としては初めて運転台の後ろに展望席を設けました。
それに一番驚いたのは、車椅子でも使用できる大型の多目的トイレと男子用トイレが中間車に付いたことです。4月5日と14日に金沢文庫駅まで試運転車が来たので見に行きましたがカーテンで閉められており車内の様子は見られませんでしたのが残念です。営業運転は5月6日のモーニングウイング号からという事ですが、その後、どのように使用されるか楽しみです。
京急創立120周年記念事業の一つとして、3月14日に6駅の駅名改称がありました。①羽田空港国内線と②国際線ターミナルが、それぞれ①「第1・2ターミナ」と②「第3ターミナル」に改称、③産業道路が「大師橋」に④花月園前が「花月総持寺」になりました。花月園はJR線の向かい側の丘の上に、戦前は遊戯施設を備えた遊園地があり戦後、競輪場となりましたが2010年に廃止となり、名称は10年間残ったことになります。
京急東神奈川について
私は⑤仲木戸→京急東神奈川と⑥新逗子→逗子・葉山に改称の前後に見に行ってきましたので駅の成り立ちと共に書いてみました。
⑤江戸時代に神奈川宿に将軍が宿泊の時、警護の木の柵を作り、この付近を仲木戸と呼ばれていたので駅名になったようです。京浜電鉄時代、急行運転のため現在の南太田の様に中線に追い越し線がありましたが、戦災で焼失、待避設備は廃止され復旧されましたが、S32年にも近くの簡易宿泊所の出火で全焼した歴史がありました。この駅付近だけ高架になっていますが、明治43年に現JR横浜線の貨物線が通っていたため盛土をして立体交差としたためとのことです。
逗子・葉山について
旧、新逗子駅はS60年に京急逗子と400Ⅿ先にあった逗子海岸を統合してできた駅で、逗子線8両運転にあたり、旧京急逗子駅は両側を主要道路が通っており6両分の余裕がなく、旧逗子海岸駅とも近いため、その中間に作られました。
現在のホームには両側に改札口が葉山側は地上ですぐ外に出られますが、神武寺側は高架で踏切を渡り3階の改札口に出ますが旧、京急逗子駅のホームの端から端まで歩く距離があり、乗り降りには時間の余裕がいります。逗子・葉山は両側にそれぞれの特徴があり、いい名称だと思います。
前回、京急創立120周年の折り返し点である60年前の事を思い出と共に書かせていただきましたが、何というタイミングか今回「鉄道ピクトリアル」誌、別冊アーカイブスセレクション41「京浜急行電鉄1950~60」が10月10日に発行され、この前ご紹介した1958年(S33)7月号に載った(私鉄車輌めぐり京浜急行)の記事が全文7ページにわたって、又、60年前に私がよく投稿していた、読者短信と共に掲載されました。
60数年前の事ですから、出版元も私の事も忘れていて当然のことと思いますが、鉄道仲間が私の住所を知らせてくれ掲載誌を送ってくれたのです。当時は今の様に情報も少なく、唯一図書館でみた「京浜急行50年史」が資料としては頼りでした。まだ学生時代で苦労はしましたがこのように残していてくれていたのには感謝です。今では見られない車輌ばかりですが、鉄ちゃん、京急好きの人、当時はこんなだったのかと読んでいただければ光栄です。
京急は2018年に創立120年を迎え、今年(2019)9月から品川駅から、横浜みなとみらい地区に順次本社の移転が始まるようです。書店には京急関連の本が何十種も並び棚を賑わせています。
私は1936年、現在の金沢区に生れ、ずっと金沢に住んでいます。ですからどこに行くにも交通機関としては現・京急の(湘南電鉄)しかありませんですから、歴史の3分の2の80年は利用していることになります。戦前からの思い出は沢山あり、上大岡側の屏風ヶ浦とのトンネル入口で電気が消えたり(複電圧の切り替えですが黄金町と南太田の時代は知りません)、上大岡駅の下り側の切りかけホームとか、仲木戸での中線での急行追い越しとか、戦後の車輌不足による競合路線のない横浜以南の混雑ぶり、湘南電車ならぬ遭難電車といわれたり記憶にあります。何よりも1950年に国鉄が東京~熱海・沼津に湘南電車が運転された時には親しんだ「湘南」の名前を盗られたようで悔しかったです。S31年から40年4月までの10年間は通学・通勤では、品川まで毎日利用していましたので過去を懐かしんでも仕方ありませんがその頃の思い出は特にあります。
創立120周年になりますが、その折り返し地点である60周年の頃の資料が,私はコレクターではありませんが少しありますので振り返ってみたいと思いました。
S40年頃まで海水浴には電車の利用が多く、7・8月の日曜には品川~逗子海岸への(海水浴特急)が頻繁に運転されました(雨天運休)。沢山の海水浴帰りの乗客を乗せた品川行海水浴特急 S35年頃 金沢文庫ー能見台 三浦海岸は開通していません
思い出話、最近の話題など京急の話ならなんでも結構です。京急好きの人、一度コミュニュテイハウス「さくら茶屋にししば」にお話しにいらっしゃいませんか。私はボランティアでイベントのお手伝いをしており、ご連絡くださればお待ちしています。 梅木隆史
1月26日京急、金沢八景駅の一部が使用開始となり改札口が3階になったので見に行ってきました。現在はエレベーターが完成していないので、階段かエスカレーターしか使えませんが、地上からエスカレーターを2度乗りかえて3階の改札口に行き、2階のホームに降りることになりました。時間を計ってみたら地上からホームまでは3分弱かかりました。電車に乗るときは若い人は階段を駈け上ることも出来ますが、高齢者は少し早めに行かないと乗り遅れそうです。まだ地上は迷路のようですが、3月末のシーサイドラインの延長が完成すると乗り換えもより便利になるでしょう。
京急では塗装された2017年度の1000形の8連1200番代、6連1600番代の増備が進み、4月1日現在800形はまもなく、2000形は3月29日に全廃となりました。マニア的の話は鉄道誌に任せるとして、オールドフアンとして登場時の思い出など書いてみました。
800形は京急創立80周年の昭和53年(1978)年に普通車用として3両編成、片側4扉で登場、現在の赤に窓周り白の塗り分けの最初の車輌で、初のワンハンドル操作の運転台、冷房車として窓は固定されていました。(その後製造された車両は開閉式窓になる)高加速、高減速のため、特急電車のスピードアップにも貢献しました。その後、乗客も増加してきたので、3両の中間車の増備や、3両の片側の運転台を撤去し全車6両編成になり昭和61年(1986)までに132両が製造されました。昭和54年(1979)に鉄道友の会から通勤形としてのローレル賞を受賞しています。2000形登場により赤と白帯に塗色の変更がありましたが、823号車は2011編成と共にオリジナルカラーにもどされ最後まで運転をされました。当時の思い出として801編成は試用のためかサングラスの様な色の付いた窓ガラスを採用してカーテンを省略していましたが客室が暗い感じで、のちに普通のガラス窓になってしまいました。
2000形最後の一編成の2011~2018が3月24日に最後のエアポート急行の運転、25日にさよなら運転をして29日に廃車となりました。奇しくも当日は1217~の白い電車が綜合車輌から出庫してきた日でした。2000形は快特用の2代目600形に代わり昭和57年12月27日(1982)に登場した京急では初の両開き2扉の車輌でドア間に中央に向かって2人掛けシートと両端に4人掛け(中央も)のボックスシートを設けていました。また、関東地区では珍しくオフラッシュ時に一人でも多く座れるよう補助椅子も設けられていましたが車掌さんがなかなか開放してくれず赤ランプが消えるのをじっと見ていた記憶があります。当時は今ほど鉄ちゃんも多くはありませんでしたが、登場前から京急にすごい新車が出るとフアン仲間では大騒ぎされ、私も待ちきれずに東急車両(現・綜合)の垣根越しに見に行きました。登場時は1編成だけで、運転時間に合わせて乗りに行ったりしていました。昭和62年(1987)までに8両編成と4両編成各6本72両が製造され、主として快特運用で大いに活躍し、昭和57年度(1982).の鉄道友の会からブルーリボン賞を受賞しました。年末ぎりぎりに登場したので驚いたものです。昭和59年2月15日に今上天皇が皇太子時代の時、浦賀での新日本丸進水式の帰路品川までご夫妻で2016号にご乗車されています。前年58年5月にも学習院中等科の遠足で紀宮清子内親王がご乗車になっています。
H10年京急100周年を迎え、より性能、居住性の良い2100形が登場、2000形は快特用の主力を譲りましたが、経年も浅いため、両端のボックスシートを残し、中央にドアを増設3扉ロングシートに改造され、塗色も赤に白帯となりました。正面が非貫通のため地下鉄線には入れないため、4連は先に廃車となりましたが、8連は晩年、主にエアポート急行に使用され、登場時のリバイバル塗装に戻された第1編成が最後まで残りました(空港線の天空橋~羽田空港国内線ターミナルは地下線ではなくトンネルになっているそうです)
3月25日9時半過ぎ、さよなら運転の貸切電車を見に、撮影スポットの上西柴バス停の処に行ったら、若いファンが30人位撮影に集まっており、遠くは小田原からきた学生もいました。皆オリジナル車両を知らない世代ばかりでした。新車が出ることにより、旧型車が廃車になるのは仕方ない事ですが、昔からのフアンとしては寂しい限りです。