閑散とした金沢文庫駅ホームと品川行、急行。横浜寄りに構内踏切があった
今回は京急、金沢文庫駅から能見台にかけてです。昭和の初めころ現在のイトーヨーカ堂のところに富岡兵器の工場ができました。(戦後は日本平和産業(日平)と平和そのものの名前に変身)その頃、能見台駅(旧、谷津坂駅)はなく次の駅は京急富岡(当時は湘南富岡)でした。現在でこそ金沢文庫から能見台にかけては宅地開発によりひらけていますが昭和30年代頃は山と山の間を電車と16号線が通っているだけで暗い感じでした。兵器工場ができたのもそのような山の中であったからと思います。
開発の始まった片吹団地、正面左側の西武団地の山は崩されていない
歩道の向う側あたりに踏切があり、片吹団地にはこの一本しか自動車では行けなかった
通勤には金沢文庫か湘南富岡(当時)の駅を利用していたようです。横浜中高の先、線路に沿って富岡への歩行路がありました。太平洋戦争もたけなわとなり、兵器工場も増産体制で,工員輸送の便宜のため谷津坂駅ができたのだと思います。ホームは木造で物資のない時代急遽つくられたようで現在の場所より100mほど金沢文庫よりに(現在の16号信号のあたり)昭和19年5月10日開業しましたが、朝夕のみの停車で工員の定期券所持者しか乗降できませんでした。昭和20年6月10日横浜南部の空襲で湘南富岡駅が爆撃をうけ使用不能となり、いつのころか分かりませんが谷津坂駅が一般の人も乗降できるようになり現在に至っています。
西友ストアのあたりはまだ山だった
大寧寺に入る踏切、16号は自動車も少なく閑散としている。踏切には警報機もない (今回の一部の写真は京浜急行ロマンスカーより許可を得て掲載しています)
16号から大寧寺への通路は地下道に、片吹団地へは跨線橋となりましたが以前は警報もない踏切で多くの人が電車に惹かれて亡くなっており11月23日には慰霊祭が毎年行われているとのことです。
