京浜急行の特急運転の変せん

 ハイ特、海特、ラ・メール号などの名称 

  先日、近鉄特急が70年を迎えたというニュースが話題として取り上げられていたので、京浜急行(以下京急」の特急運転を始めたのはいつか調べてみました。

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金沢文庫にも停まり誰でも乗ることができたハイキング特急灯台号

  1948年(S23)京急は戦時中の大東急時代から分離独立しました。戦争が終わり平和な時代が訪れると三浦半島や房総鋸山周辺は、東京から日帰りできる観光地として大勢の人が訪れるようになりました。京急も昭和25年から、急行の復活、春秋の休日に観光客を運ぶハイキング特急(以下ハイ特)が運転されましたが、普通電車を追い越せるところは学校裏(現・平和島)と金沢文庫、八景にしかなくのろのろと走り特急とは名ばかりのものでした。

 

  1951~52年(S26~27)にかけて500形というロマンスカーが登場し(といっても中央にボックスシートが6脚あるだけでしたが)、同時期に、子安、上大岡に待避線が出来、ハイ特もスピードアップされ、房総号、三崎号、城ケ島号、油壷号、白秋号(房総号以外は久里浜、逗子行もありました)などの名前が付けられ、行く先により周遊券を買うと往復の座席が指定され現在のパック旅行の様なものが運転されました。品川を出ると主に川崎、横浜に停車しましたが品川―浦賀ノンストップの運転もあり、房総への乗客の多い時は第4房総号など運転されました。当時は、大島行路、金谷航路は浦賀港より出ていましたのでそれに連絡していました。ハイ特は金沢に住んでいる私には縁のないものでしたが、その他に周遊券を買わなくても誰でも乗れる、観音埼灯台や(灯台号)鷹取山への(鷹取号)という片道だけの特急があり金沢文庫にも停まり、それぞれ馬堀海岸、神武寺からのハイキング客が利用していました。

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金沢海岸に1軒だけ残った海の家、真夏には右端まで並んでいた

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海水浴客でにぎわう逗子海岸駅

   昭和28年夏からは7~8月の日曜日には海水浴客のための海水浴特急(以下海特)が品川―逗子海岸(現在は京浜逗子と統一され新逗子になっている)に朝夕10分間隔位に運転され多くの人を運びました。昭和41年には三浦海岸駅まで線路が延びてそちらのほうにシフトされましたが、モータリゼーションの時代と共に、海水浴客も少なくなり、また京急も都営浅草線へ乗り入れになるようになり、いつのまにか廃止となりました。

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海水浴帰りの乗客を乗せて品川へ向かう海水浴特急(そろそろ道路の混雑も始まっている)1965年夏ごろ

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浦賀駅に着いた週末特急パルラータ号、帰路の品川行  横須賀中央、金沢文庫、横浜、京浜川崎に停車した

   ハイ特も海特もどちらも天候が悪いと運休になりましたが、もう一つ当時土曜日は多くの企業が半ドンだったので1956年(S31)3月から毎週土曜日の昼過ぎ品川発12時40分と13時40分(後に時間変更もありましたが)に天候に関係なく週末特急が運転され、浦賀から大島行路に連絡するラ・メール号(仏語で海)房総金谷航路に連絡するパルラータ号(伊語で語らい)というしゃれた名前がつけられていました。現在の快特より停車駅の少ない、川崎、横浜、金沢文庫、横須賀中央の4駅だけでした。当時は昼間の時間帯には特急運転がなく私も通勤帰りによく利用しました。ラ・メール号は品川発車の時、同名のシャンソンが流れて、これは駅メロの初めではないかと自分では思っています。当時、上大岡は通過でしたが、今の発展ぶりには驚きです。都営乗り入れに際し手が快速特急が運転され、上大岡にも停まる様になり、週末特急がそのルーツではないかと私は思います。

    そのようなことで京急の特急運転の初めは1950年で近鉄に遅れること3年となるのではないかと思います。(年表については京急100年史を参考にしました)

 

2017年10月19日